5分でわかる!承久の乱の結果
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この動画の要点まとめ
ポイント
3上皇の配流と、天皇の譲位
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1221年 の 承久の乱 で、北条義時を中心とする幕府が、後鳥羽上皇を中心とする朝廷側に圧勝しました。
その結果、幕府はまず、朝廷側の中心人物を次々と排除していきます。
後鳥羽 (ごとば)、土御門(つちみかど)、順徳(じゅんとく)の三上皇を、それぞれ 隠岐 (おき)、土佐、佐渡へ配流します。
隠岐は島根県の北方にある隠岐諸島、土佐は今の高知県、佐渡は新潟県沿岸にある佐渡島のことです。 旧国名の、現在の位置 も、できれば地図帳や図録などで確認しながら押さえておきましょう。
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さらに、天皇になったばかりの仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう)も、後堀河天皇(ごほりかわてんのう)へ譲位させられます。
こうして、朝廷側の中心人物は、全員散り散りになってしまいました。
西国支配の拠点、六波羅探題
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幕府は、上皇の配流や天皇の譲位で朝廷の影響力が弱まった京都に 六波羅探題 (ろくはらたんだい)を設置し、朝廷の監視や、政治裁判の拠点としました。
幕府ができた当初は京都守護がありましたが、その代わりにこの六波羅探題が設置されました。
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初代の六波羅探題は、北条泰時と北条時房の二人 です。
北条氏が直々に行って、西国の政治を行った、ということです。
こうして、幕府は今までは朝廷が持っていた 西国の支配権を確立 しました。
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さらに、六波羅探題を拠点として、 西国に「幕府の家来」=「御家人」=「地頭」を設置 していきます。
承久の乱後、幕府が新たに手に入れた土地を与えて地頭にした御家人を、 新補地頭 (しんぽじとう)といいます。
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幕府は、この 新補地頭 になりたい人を増やすため、 新補率法 を定めます。
これは、土地の面積一反ごとに五升の米を追加で徴収できる、というものでした。
つまり、 新補地頭になった人は、自分の土地から多く税を取って、自分の物にしていいですよ、というボーナスをつけた のです。
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こうして、幕府は朝廷の権力を弱め、六波羅探題を設置し、新補地頭を次々と任命して勢力を強めていきました。
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今回は、引き続き鎌倉時代の政治について見ていきます。
まずは、 北条義時 の時代に起きた大きな戦い、 承久の乱 の結果と、それによって幕府がどう変わっていったか、というところから見ていきます。