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5分で解ける!ヤマト政権2に関する問題

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この動画の問題と解説

練習

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ヤマト政権2 練習 空欄

解説

これでわかる!
練習の解説授業
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今回学んできた、4~6世紀のヤマト政権に関する内容を、練習問題で確認していきましょう。

4世紀のヤマト政権、高句麗と争った記録が残る好太王碑

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4世紀の終わりごろ、日本(倭)は朝鮮半島へ出兵しました。
その記録が残っているのは、高句麗の 好太王碑 (広開土王碑)です。

5世紀のヤマト政権、倭の五王の時代

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5世紀になると、ヤマト政権の 讃・珍・済・興・武 という5人の王が中国の宋に朝貢しました。
この5人は 倭の五王 と呼ばれています。
5王のなかで、武はワカタケル大王であると分かっており、古墳などから出土した鉄刀や鉄剣などに名前が残っています。
また、後の時代には雄略天皇とも呼ばれています。

6世紀のヤマト政権、仏教が伝来し崇仏論争が起きた

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6世紀のヤマト政権には、 儒教仏教 が伝来しました。
儒教は 百済 の五経博士が、仏教は同じ 百済 の聖明王が伝えました。
仏教が正式に日本に伝えられたのは、538年といわれていましたね。

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大臣の蘇我氏と大連の物部氏は権力争いで対立しており、 崇仏論争 も起きました。
この崇仏論争に勝利した崇仏派の 蘇我馬子 は、その後、物部守屋を滅ぼします。
そして、蘇我馬子は政治の実権を握り、仏教中心の政治を行っていくことになります。

練習の答え
ヤマト政権2 練習 答え入り
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ここまで、「古墳文化」と「ヤマト政権」の2つのテーマで、古墳時代の4世紀、5世紀、6世紀を見てきました。
それぞれの時代に、古墳の形や副葬品がどう変わったのか、政治はどのように推移したのか、もう一度改めて整理してみると良いでしょう。

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