5分でわかる!元明天皇の治世
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この動画の要点まとめ
ポイント
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奈良時代は、天皇の他にもう一人、実質的に政権を担当していた人物がいます 。
政策が行われた時の天皇と、その時にそれらの政策を実行していた人物を、セットで覚えましょう 。
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今回は、この奈良時代の最初の頃、元明天皇や元正天皇の時代について見ていきます。
作ったけれども流通しなかった「和同開珎」
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まずは 元明天皇 の治世からです。
この元明天皇は、女性の天皇(女帝)でした。
この時代、実質的に政権を担当していた人物は 藤原不比等 (ふじわらのふひと)です。
中臣鎌足(藤原鎌足)の子で、「大宝律令」制定の中心になった人物です。
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元明天皇は708年、 和同開珎 (わどうかいちん)という銅貨を鋳造しました。
以前の富本銭とは異なり、流通させるために造った貨幣でしたが、当時の市場は物々交換が主流であったため普及しませんでした。
和同開珎から後の乾元大宝まで、朝廷が鋳造した貨幣12種類をまとめて 皇朝十二銭 (こうちょうじゅうにせん)と呼びます。
ちなみに、同じ年に元号も「和銅」と変わりましたが、元号の「和銅」と、和同開珎の「和同」は漢字が違うので注意しましょう。
「なんと綺麗な平城京」710年に遷都!
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和同開珎を鋳造した3年後、710年に、それまでの藤原京から、大和の 平城京 へと遷都します。
藤原京と同様に、中国(唐)の 長安 という都市にならう 都城制 の都です。
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都城制とは、天皇の住む「宮」の周りに「京」という町の部分を作り、大きな都を作る方法です。
具体的に、都がどのような構造だったのかを見てみましょう。
![奈良時代1 ポイント1 平城京の図のみ(四角で構成された図部分のみ)](https://d12rf6ppj1532r.cloudfront.net/images/k/0/soc_j_his_b/1_0_31_1/k_soc_j_his_b_1_0_31_1_image05.png)
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まず、この図は上が北を指しています。
北の真ん中に、天皇が政治を執る 平城宮 があります。
そこから南へ真っすぐ伸びる道を 朱雀大路 (すざくおおじ)、朱雀大路を挟んで西側を 右京 、東側を 左京 と呼びます。
上の図で見ると、左京と右京が逆じゃない? と思うかもしれませんが、これは「 天皇から見て左・右 」であることを覚えておきましょう。
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また、平城京だけの特徴として、左京の右上(北東)に 外京 というでっぱりがあります。
この付近には、有名な寺である東大寺などがありました。
![奈良時代1 ポイント1 木簡の写真のみ](https://d12rf6ppj1532r.cloudfront.net/images/k/0/soc_j_his_b/1_0_31_1/k_soc_j_his_b_1_0_31_1_image06.png)
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そして、この平城京の跡地から、 木簡 という木の札が多く出土しています。
この時代はまだ紙が貴重なものだったため、このような木簡に文字を書いて、政治などを行っていました。
この木簡に書かれた内容から、当時の様子がいろいろと伺えるので、大事な出土品なのです。
平城京でのさまざまな政治
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和同開珎が思うように流通しなかったため、711年に 蓄銭叙位令 (ちくせんじょいれい)が制定されます。
所有する銭貨の数に応じて位を高くする、という制度です。
貨幣の価値は高くなりましたが、皆が位を高くするために銭をを貯め込み、ほとんど使わなかったので、銭の流通には役立ちませんでした。
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712年には、日本に現存する最古の歴史書である 古事記 が完成しました。
稗田阿礼 (ひえだのあれ)が暗記した神代からの歴史を 太安万侶 (おおのやすまろ)が筆録したものです。
翌年には、各地の由来や特産物を記す 風土記 (ふどき)の編纂命令が出されるなど、徐々に文字で書かれた記録が増えていきます。
ちなみに、 古事記 や 風土記 の「記」はごんべんの漢字です。いとへんの「紀」と間違えないようにしましょう。
蝦夷・隼人に対抗して、国を拡大
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朝廷から遠く離れた東北や南九州には、まだ朝廷に従わない民もいました。
東北の 蝦夷 (えみし)、南九州の 隼人 (はやと)と呼ばれる人たちです。
朝廷は、支配地域を拡大するために、東北には出羽国、九州には大隅国を置き、「ここまでが日本の領土です!」というアピールをしたと、いうイメージをもってください。
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ここまでが、元明天皇の治世でのできごとです。この後、その続き、元正天皇の時代に移っていきます。
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今回から、奈良時代の政治を扱います。
奈良時代は、前の飛鳥時代(天智・天武天皇あたりの時代)から続く時代、そして、次の平安時代に繋がっていく時代です。