高校日本史B
5分でわかる!孝謙天皇の時代
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この動画の要点まとめ
ポイント
孝謙天皇の治世
これでわかる!
ポイントの解説授業
大仏が完成し、鑑真が来日
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聖武天皇は、自分の娘に譲位をして、自身は上皇となりました。
譲位とは天皇の位を譲ることで、天皇をやめた人のことを上皇と言います 。
その、聖武天皇の娘である 孝謙天皇 (こうけんてんのう)の時代を見ていきます。
聖武天皇の在位時の 橘諸兄 に代わり、 藤原仲麻呂 (ふじわらのなかまろ)が大きな権力を握った時代でもあります。
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孝謙天皇の時代には、以前から続いていたり、行われていたりしたことに関する出来事が多いです。
752年には、743年に聖武天皇が造立を始めた大仏が遂に完成し、 開眼供養会 (かいがんくようのえ)が実施されました。
これは、大仏に魂を込めるために、最後に目を入れる儀式です。
また、翌年には、五度にわたって来日を図るも失敗が続けていた僧 鑑真 (がんじん)が唐からついに来日しました。
聖武の死後、藤原氏(仲麻呂)の権力が拡大していく
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756年、聖武天皇(正確には天皇をやめているので聖武上皇)が亡くなります。
その翌年、757年には、 藤原不比等 が中心となって717年に制定した 養老律令 (ようろうりつりょう)が施行されています。
政権の中心にいたのが藤原仲麻呂だったため、祖父にあたる藤原不比等の作った律令を使おうとしたわけです。
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このように、再び藤原氏が権勢を奮うようになると、それを面白く思わない者が現れます。
その一人、橘諸兄の子である 橘奈良麻呂 (たちばなのならまろ)がクーデターを起こします。
これが、 橘奈良麻呂の乱 (橘奈良麻呂の変)です。
このクーデターは失敗に終わり、かえって仲麻呂の権限を強める結果に終わります。
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今回は、奈良時代の後半、聖武天皇の後の時代について、政治の実権を握った人物とともに押さえていきましょう。
1つ目のポイントは、 孝謙天皇の治世 についてです。