5分でわかる!6世紀のヤマト政権
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この動画の要点まとめ
ポイント
4世紀、5世紀の内容と比べると、取り上げる出来事が多く、前回の授業で習ったことが出てくることもありますので、分からないことはその都度前に戻って見直しましょう。
6世紀前半に磐井の乱という反乱が起きた
まずは継体天皇(けいたいてんのう)の治世から。
527年、つまり6世紀に、ヤマト政権の中で 磐井の乱 (いわいのらん)という反乱が起きました。
この 磐井の乱 は、ヤマト政権が朝鮮に出兵しようとしたところ、筑紫国の国造であった磐井氏が朝鮮の国の一つである 新羅 と結託して、九州で起こした反乱です。
また同じころ、6世紀の初めには、 百済 から五経博士(ごきょうはかせ)が来日し、中国の学問である 儒教 を日本に伝えました。
百済から仏教が日本にやってきた
続いて欽明天皇(きんめいてんのう)の時代。
日本は朝鮮の南部にあった 任那 に日本府という、日本の出張所を置いていたとされています。
しかし、562年に任那が同じ朝鮮半島にあった 新羅 という国に滅ぼされ、日本は朝鮮半島における拠点を失ったようです。
先ほどの継体天皇の時代には 儒教 が伝来されましたが、この時代には 百済 の聖明王から 仏教 が伝えられました。
仏教公伝の年は二つ説があり、 538年 と552年に分かれています。
まずは538年のほうを覚えましょう。「仏教公伝、ご参拝(538)」という覚え方もあります。
儒教も仏教も、朝鮮半島の 百済 から伝えられました。百済は朝鮮半島の南側にあった3つの国(新羅、伽耶、百済)のうち、一番西にあった国です。
仏教を取り入れた政治を行うかどうかで、崇仏論争が起きた
その後、日本では 崇仏論争 (すうぶつろんそう)が起こりました。
これは、日本の政治に仏教を取り入れるかどうか、という論争です。
仏教を取り入れよう、という崇仏派であった 大臣 の 蘇我馬子 (そがのうまこ)と、仏教は取り入れないほうがいい、という廃仏派であった 大連 の 物部守屋 (もののべのもりや)の間で争われました。
その結果、崇仏派であった蘇我馬子が勝利し、後に物部守屋を滅ぼして、ヤマト政権の実権を掌握するようになります。
3つ目のポイント、ここでは6世紀のヤマト政権の様子を見ていきます。