高校日本史B
5分でわかる!田沼時代(2)
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この動画の要点まとめ
ポイント
田沼時代(田沼意次の様々な政策と天災)
これでわかる!
ポイントの解説授業
農業政策の頓挫と蝦夷地の探検
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田沼意次は、1782年から、下総(現在の千葉県・茨城県)にある印旛沼(いんばぬま)・手賀沼(てがぬま)の干拓に着手します。
田んぼから税金が取りにくくなっていたので、 田んぼ自体を増やして米の増産を図った のです。
しかしこれは結局、後に洪水や田沼意次自身の失脚により頓挫してしまいました。
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1783年、仙台藩の 工藤平助 (くどうへいすけ)が「 赤蝦夷風説考 」(あかえぞふうせつこう)を幕府に提出します。
蝦夷地(今の北海道)の豊富な産物や、ロシアの進出してくる可能性など、蝦夷地の重要性を指摘し、開発の必要を強調しました。
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これを受けて意次は蝦夷地開発を計画します。
1785年には実際に 最上徳内 (もがみとくない)が蝦夷地を探検しました。
この蝦夷地開発計画は、意次の失脚後いったんストップしますが、その後も続いていくことになります。
天災によって民衆の不満が増大し、田沼意次は失脚
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1782~1787年は 天明の大飢饉 (てんめいのだいききん)といわれる不作が続き、多くの餓死者が出ました。
またその大飢饉の原因の一つとして、1783年には 浅間山(あさまやま)が大噴火 し、大勢の死者が出ました。
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こうした大きな天災が続いたことで、民衆の暮らしは苦しくなり、かたや商人を優遇して賄賂政治を横行させている田沼政治への不満は高まっていきました。
そしてついに1784年、 田沼意次の息子である田沼意知(たぬまおきとも)が暗殺 され、1786年には意次も失脚しました。
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また田沼意次が失脚した後の1787年には、 天明の打ちこわし (てんめいのうちこわし)と呼ばれる大規模な暴動が各地で発生し、不安定な世情はなかなか治まりませんでした。
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2つめのポイントでは、田沼意次の行ったその他の政策と、民衆を襲った2つの大きな天災について見ていきましょう。