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5分でわかる!家康と秀忠の大名統制

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この動画の要点まとめ

ポイント

徳川家康・秀忠の時代―大名統制―

近世14 単語2 家康と秀忠の大名統制近世14 ポイント2 大名統制の部分:大名統制のアイコンあり、左右ページにわたるので注意

これでわかる!
ポイントの解説授業
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再び国内に目を向けて、徳川家康と秀忠が、大名たちをどう支配していったのか、ということについて見ていきましょう。

大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼし、平和宣言を出す

近世14 ポイント2 大坂夏の陣の3行(左下部分)

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徳川家康は、関ヶ原の戦いで西軍に味方した大名の領地に対して厳しく当たり、領地の取り上げなどを行いました。
これに不満をもった大名たちが、 豊臣秀吉の息子である豊臣秀頼(とよとみひでより)を担いで江戸幕府と戦います
何度か戦った後、 大坂夏の陣 (おおさかなつのじん)で豊臣秀頼が自刃し、豊臣氏は滅亡します。

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これで 家康は、生きているうちに、大きな敵対勢力を潰すことに成功しました
そして、大坂夏の陣の後、幕府は元和偃武(げんなえんぶ)の宣言を出します。
元和とは新しい年号のこと、偃武とは「武力を嫌う」という意味で、いわば、幕府からの戦争禁止令のようなものでした。

一国一城令や武家諸法度元和令というルールを定めた

近世14 ポイント2 ①・②の一国一城+武家諸法度(右上部分)/大名への罰は除く

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江戸幕府の大名統制政策の1つが、1615年に出された 一国一城令 (いっこくいちじょうれい)です。
一人の大名の領地には城を1つしか認めず、その他の城を破却させました。
大名が幕府に逆らった時、城が複数あると攻めづらいことから、事前に城を取り除いておく ための命令でした。

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同じく1615年には、 崇伝 (すうでん)が起草した 武家諸法度元和令 (ぶけしょはっとげんなれい)が発布されました。
武家諸法度はこの後、将軍が変わる度など、何回も出されます。
そのため、 一番最初の武家諸法度がこの「元和令」だった 、ということをしっかりと押さえておきましょう。

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この武家諸法度元和令では、大名同士の同盟や・私婚(幕府の許可のない結婚)、城の無断修築・新築が禁止されました。

ルールに従わない大名には罰を与える

近世14 ポイント2 「大名への罰」部分

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武家諸法度元和令に背いたり、幕府に逆らった大名には様々な罰が下されました

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土地を取り上げて大名の家を取り潰す 改易 (かいえき)が一番厳しい罰です。
他にも、領地を強制的に移す 転封 (てんぽう)、領地を減らす 減封 (げんぽう)などがありました。

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このように、ライバルを潰して平和宣言を出し、武家諸法度元和令というルールを決めて、ルールを守らない時には罰を与えて、大名たちを支配していったのです。

この授業の先生

黒川 広貴 先生

「どこがテストに出るの?」「どうやって覚えたらいいの?」「どうしたら点数がとれるの?」という疑問に答え、着実に点数を伸ばすための授業を展開。

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