高校日本史B
5分でわかる!朝廷権威の利用と西の平定
![高校日本史B](http://assets.try-it.jp/assets/modules/utilities/subject_symbol_border_k0_social_japanese_history_b-622d7c52e7d08c2c2339d05e47e0eff5e0ad93701b1c191caa149f9fbd499f83.png)
- ポイント
- ポイント
- ポイント
- 練習
![](http://assets.try-it.jp/assets/modules/components/movie_size-f89110ba4a351d85c483bb12f73c7cf89e2ba13a9174f58b4a38599d28678843.png)
この動画の要点まとめ
ポイント
朝廷権威の利用と西の平定
これでわかる!
ポイントの解説授業
![lecturer_avatar](https://d12rf6ppj1532r.cloudfront.net/kurokawa.png)
ここから秀吉は、さらに権力を強め、未だ従っていない地域を制圧していくことになります。
関白に就任し、戦争禁止令である惣無事令を出す
![lecturer_avatar](https://d12rf6ppj1532r.cloudfront.net/kurokawa.png)
秀吉は1585年に 関白 に就任しました。
関白の地位に就いた秀吉は、自身の許可のない戦争を禁止する 惣無事令 (そうぶじれい)を発布します。
![lecturer_avatar](https://d12rf6ppj1532r.cloudfront.net/kurokawa.png)
この惣無事令は、戦国時代の分国法などに書かれた「喧嘩両成敗」の系譜を継いだもの、としても試験に出されます。
秀吉の配下は秀吉の許可なく戦争してはいけない、ということです。
(実際に権力があるかはともかく、)日本のトップである天皇の代理である「関白」、そしてこの後「太政大臣」の地位を得る秀吉にとって、日本全国の大名は皆「配下」ともいえます。
そのため、この 惣無事令を戦いの大義名分として、「戦争禁止令違反」という形で、従わない大名を平定していく ことになるのです。
西の大名を平定し、太政大臣にも就任
![lecturer_avatar](https://d12rf6ppj1532r.cloudfront.net/kurokawa.png)
そして秀吉は、この後実際に、自身に従わない大名を順に攻め、次々と平定していきます。
まずは西のほうから、1585年には 四国の長宗我部元親 (ちょうそかべもとちか)を、1587年には 九州の島津義久 (しまづよしひさ)を破っています。
これによって、 四国と九州が秀吉の支配下となりました 。
![lecturer_avatar](https://d12rf6ppj1532r.cloudfront.net/kurokawa.png)
四国平定と九州平定の間にあたる1586年には、朝廷から 太政大臣 の地位と豊臣の姓を賜り、朝廷の権威によってますます力を伸ばしていきます。
ちなみに、秀吉はこの時まで、「羽柴秀吉」という名でした。
このときに豊臣の姓を得たことで、後々「豊臣秀吉」とも呼ばれるようになりました。
![](http://assets.try-it.jp/assets/modules/utilities/logo_black-a711ae7f4c2af1410b916e7066a5e8950d6f2f3a2150e093b6dc878ad8f31d3f.png)
信長の後を継いだ秀吉ですが、全国を見ればまだ秀吉に従わない大名は多くいました。
西には 四国 の長宗我部氏、 九州 の島津氏。
東には 小田原 の北条氏、 東北 の伊達氏などです。