高校日本史B
5分でわかる!藤原基経・宇多天皇の時代
![高校日本史B](http://assets.try-it.jp/assets/modules/utilities/subject_symbol_border_k0_social_japanese_history_b-622d7c52e7d08c2c2339d05e47e0eff5e0ad93701b1c191caa149f9fbd499f83.png)
- ポイント
- ポイント
- ポイント
- 練習
![](http://assets.try-it.jp/assets/modules/components/movie_size-f89110ba4a351d85c483bb12f73c7cf89e2ba13a9174f58b4a38599d28678843.png)
この動画の要点まとめ
ポイント
藤原基経の時代
これでわかる!
ポイントの解説授業
関白になった藤原基経
![lecturer_avatar](https://d12rf6ppj1532r.cloudfront.net/kurokawa.png)
清和天皇の次に皇位に就いたのは陽成天皇でしたが、基経は強引に譲位させ、 光孝天皇 (こうとくてんのう)が即位しました。
光孝天皇は基経に「天皇にさせてもらった」という恩義があり、成人の天皇でありながら、政治を基経に預けてしまいます。
こうして、基経は実質的な 関白 に就任しました。
![lecturer_avatar](https://d12rf6ppj1532r.cloudfront.net/kurokawa.png)
しかし、光孝天皇の跡を継いだ 宇多天皇 (うだてんのう)は藤原氏の介入を嫌い、自身が政治を執ろうとします。
そこで、正式に関白に就任することを求めた基経に対して、宇田天皇は関白ではなく「阿衡」という、中国にあった位を与えます。
これに対して基経が仕事をボイコットする 阿衡の紛議 (あこうのふんぎ)を起こします。
基経がいないと政治が回らなかったため、結局、宇多天皇は基経を関白に任命することになり、基経の権力はより強大なものとなりました。
基経の死後、自分で政治を行おうとした宇多天皇
![lecturer_avatar](https://d12rf6ppj1532r.cloudfront.net/kurokawa.png)
宇多天皇は藤原氏に頼らず政治を行うために、基経が亡くなった後、優秀な学者であった 菅原道真 (すがわらのみちざね)を、天皇の秘書官である蔵人頭(くろうどのとう)に就かせます。
そして、藤原氏を摂関に置かず、天皇自ら政治を行う「親政」行いました。この宇多天皇の親政を、「寛平の治」と呼ぶこともあります。
![lecturer_avatar](https://d12rf6ppj1532r.cloudfront.net/kurokawa.png)
一方、権力を取り戻したい藤原氏は、菅原道真を遣唐使に派遣することで政治から引き離そうとします。
菅原道真は宇多天皇に遣唐使に任命されますが、自身の建議で894年に 遣唐使廃止 を天皇に決意させました。
「白紙(894)に戻そう遣唐使」という語呂合わせでも有名ですね。
これにより、菅原道真は唐に行かずに済み、政治の中心に留まることになりました。
![](http://assets.try-it.jp/assets/modules/utilities/logo_black-a711ae7f4c2af1410b916e7066a5e8950d6f2f3a2150e093b6dc878ad8f31d3f.png)
2つめのポイントでは、 藤原良房 の次、 藤原基経 の時代について見ていきましょう。