5分でわかる!聖武天皇の治世(橘諸兄の時代)
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この動画の要点まとめ
ポイント
橘諸兄が政権を握るが、藤原広嗣の乱が起きる
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藤原四子が亡くなった後、実権を掌握したのは 橘諸兄 (たちばなのもろえ)でした。
橘諸兄は、遣唐使で中国へ行ってから帰国した 玄昉 (げんぼう)と 吉備真備 (きびのまきび)の2人を補佐として、政治を行っていきます。
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これを面白く思わないのが、四子の死亡後、政治権力の中心から外れた藤原氏です。
そこで、玄昉と吉備真備を政治権力の座から除こうとして、藤原広嗣(ふじわらひろつぐ)が大宰府で反乱を起こしました。
これが、 藤原広嗣の乱 です。
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藤原広嗣の乱は鎮圧されましたが、聖武天皇は自分の政権に対して反乱が起きたことがショックだったのでしょう。
聖武天皇は、740年に都を平城京から、山背の 恭仁京 (くにきょう)に遷都します。
山の中にあったこの恭仁京で、改革が進んでいきます。
鎮護国家思想に基づいた政治と墾田永年私財(の)法
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聖武天皇は、仏教によって国を治める 鎮護国家思想 (ちんごこっかしそう)に基づいて政治を行いました。
反乱や疫病が度重なる中で、仏の力で国を良くしていくしかない、という考えが出てきたのです。
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まず、741年に、全国に寺(国分寺)・尼寺(国分尼寺)を建てることを命じた 国分寺建立の詔 (こくぶんじこんりゅうのみことのり)が出されます。
743年に出された 大仏造立の詔 (だいぶつぞうりゅうのみことのり)も 鎮護国家思想 の一つです。
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この詔によって作り始められた大仏は、今でも奈良の東大寺に今も残っています。
皆さんはこの大仏を見たことはありますか? 一言で感想を言うなら、多くの人が「大きかったです」と言うと思います。
そんな大きな大仏と戦う人は、いなさそうですよね。
大きな大仏の力=国家の力=天皇の力、という形で国を治めていこう、という思いが込められていました 。
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また同じ頃、743年に、土地政策として 墾田永年私財(の)法 (こんでんえいねんしざい(の)ほう)が出されました。
この墾田永年私財(の)法によって、期間を限らず、開墾地は永久に私有することが認められました。
20年前の723年、元正天皇の治世に出された 三世一身の法 に比べて、私有できる期間制限をなくしたわけです。
この墾田永年私財(の)法が出されたことで、大貴族や大寺社が次々と開墾を進め、私有地である 初期荘園 (しょきしょうえん)を生み出すことになりました。
次々と都を変えた聖武天皇
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聖武天皇はその後、摂津 難波京 、近江 紫香楽京 (しがらきのみや)と遷都を繰り返します。
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744年に遷都した難波宮は、大化の改新のころ、孝徳天皇と中大兄皇子が政治を行っていた頃に作った都です。
しかし、翌年には 紫香楽京 に遷都します。
聖武天皇は、最初この紫香楽京に大仏を建てようとしていたほど、ここを気に入っていました。
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しかしながら、この紫香楽京が山の中にあったことなどから、同じ745年には平城京へ戻ってきます。
それぞれの都の位置と順番を、地図で確認してみましょう。
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聖武天皇はまず、藤原広嗣の乱をきっかけに、大和の平城京から山背の恭仁京に遷都しました。
次に、海の近くにあった摂津の難波宮へと遷都し、翌年山の中にあった近江の紫香楽宮ときて、最後、平城京に戻ってくることになりました。
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藤原氏と藤原氏以外の人たちが交互に次々と権力を握る中で、反乱や疫病が起き、それに対して聖武天皇が都を変え、仏の力を借りて、政治を行いました。
一つひとつで覚えるのではなく、こうして全てセットにして流れで覚えると良いでしょう 。
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2つ目のポイントは、聖武天皇の治世のうち、橘諸兄が政権を握った頃の時代についてです。