5分でわかる!目指すはフランスの孤立!
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この動画の要点まとめ
ポイント
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ポイント1で説明した、 ドイツとフランス、ロシアとオーストリア、イタリアとオーストリア の 3つの対立関係 をふまえて、ビスマルクの外交政策について勉強していきましょう。
三帝同盟の結成とベルリン会議
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フランスと対立していたドイツは、 フランスがロシアと手を結ぶことを恐れていました。 両国が手を結べば挟み撃ちにされてしまうからです。
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そこでドイツのビスマルクは ロシアとオーストリアの対立 に目をつけます。バルカン半島をめぐり対立する両国の間を取り持つ形で同盟を結んだのです。こうして、ドイツ・ロシア・オーストリアによる 三帝同盟 が誕生しました。ただし、この同盟は バルカン半島をめぐる問題 が解決しなければ維持できないことに注意してください。
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1878年、ビスマルクの主催で ベルリン会議 が開催されました。ベルリン会議において、ロシアとオーストリアはバルカン半島をめぐり議論を戦わせました。この対立について、ドイツがオーストリアの主張に賛同したため、ロシアはドイツへの不満を募らせて 三帝同盟を離脱しました。 案の定、三帝同盟は崩壊してしまったのです。
独墺同盟と新三帝同盟
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三帝同盟の崩壊後、ドイツはオーストリアと結んで 独墺同盟 を結成しました。これはロシアから攻撃を受けた場合に 全面的な相互援助 を行うことを約束する同盟です。つまり、ロシアがオーストリアに攻撃するなら、ドイツは黙っていないという意思表示でした。
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ドイツのプレッシャーに屈したロシアは、もう一度同盟を結ぶことに同意しました。こうして、再びドイツ・ロシア・オーストリアが手を結ぶ 新三帝同盟 が完成しました。
三国同盟の結成/新三帝同盟の崩壊
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ビスマルクはまだまだ手を緩めません。1882年にはドイツ・オーストリア・イタリアによる 三国同盟 を結成したのです。1881年、フランスがアフリカの チュニジア を保護国化したことで、先を越されたイタリアは反発しました。しかし、イタリアはすでにオーストリアと「 未回収のイタリア 」をめぐって対立しているため、新たな敵を増やすのは得策ではありません。
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この状況に目をつけたビスマルクは、イタリアとオーストリアの仲裁という形で同盟を持ちかけます。こうして、ドイツ・オーストリア・イタリアによる 三国同盟 が結成されました。
新三帝同盟崩壊!困ったビスマルクは…
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この後、1887年に 新三帝同盟が崩壊 してしまいました。オーストリアとロシアの対立が再び悪化したことが原因です。
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新三帝同盟が崩壊してビスマルクは困りました。冒頭でお伝えしたように、フランスがロシアと手を組めば ドイツは挟み撃ちにされる格好になります。 何とかロシアと手を結びたいビスマルクは、大胆な行動に出ました。
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1887年~1890年、ドイツはロシアと 再保障条約 を結びました。これは、いずれかの国が攻撃を受けた場合、お互いに中立の立場を守るという 秘密条約 です。
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ドイツは独墺同盟を結んでいるのにも関わらず、たとえロシアとオーストリアが戦争になってもどちらにも味方しませんよ、という約束をロシアと交わしたわけです。これは秘密条約ですから、当時のオーストリアはもちろんこのことを知りませんでした。
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こうした策略を駆使して、ビスマルクはなんとかロシアを仲間に引き入れたのです。
イギリスは一人ぼっち!?「光栄ある孤立」
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今回のお話の中で、一度も登場しなかった国があります。 イギリス です。ビスマルクのもとで様々な外交が結ばれたものの、イギリスはどの国とも手を組みませんでした。
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19世紀後半のイギリスは、 圧倒的な工業力と軍事力 を背景に、 どの国とも同盟を結ばず孤立を保っていました。 この状態を、イギリスの人たちは誇らしげに「 光栄ある孤立 」と呼んでいました。「栄光」ではなく「光栄」なので、間違えないよう注意してください。
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ビスマルクは、巧みな外交戦術によってフランスを孤立化させることに成功しました。こうして生まれた19世紀後半のヨーロッパの秩序を「ビスマルク体制」と呼びます。今回の内容をしっかり覚えておきましょう。
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ポイントの2つ目は、「ビスマルク体制」です。
1870年代~1890年にかけて、ビスマルクの外交によって完成したヨーロッパの国際体制を ビスマルク体制 と呼びます。ビスマルクはいったい、どのような国際体制を築き上げたのでしょうか?