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5分でわかる!西ドイツの平和的な外交

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この動画の要点まとめ

ポイント

西ドイツの平和的な外交

第三勢力の台頭と米ソの歩み寄り5 ポイント1 答え全部

これでわかる!
ポイントの解説授業
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第三勢力の台頭と米ソの歩み寄り、第5回。
今回は「ヨーロッパにおける緊張緩和」について学習します。

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ポイントの1つ目は「西ドイツの平和的な外交」です。
第二次世界大戦後に分裂したドイツのうち 西ドイツ にスポットライトをあてます。

アデナウアー首相、奇跡の経済復興を実現!

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戦後、敗戦国ドイツはアメリカ・イギリス・フランス・ソ連の4カ国で分割管理されました。そのうち、米・英・仏が管理する西側占領地区は、1949年に ドイツ連邦共和国(西ドイツ) となりました。

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西ドイツの初代首相には、キリスト教民主同盟の党首 アデナウアー が就任。彼のもとで西ドイツは 奇跡的な経済復興 を遂げ、アメリカに次ぐ大国とまで言われるようになりました。

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また、アデナウアーのもとで西ドイツは 主権を回復 し、 再軍備 を果たすと NATOに加盟 しました。このように西ドイツは経済・軍事の両面で戦後復興を進めていったのです。

「ベルリンの壁」が建設される!

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そんな中、1961年、東ドイツ政府は東西ベルリンの境界に ベルリンの壁 を建設しました。その目的は、東ベルリンから西ベルリンへの 亡命 を防ぐことにありました。

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アデナウアーのもとで目覚ましい発展を遂げる西ドイツと、依然として貧しい東ドイツ。当時、東西ドイツの間には圧倒的な経済格差がありました。そのため東ベルリン市民は、西ベルリン市民の裕福な生活にあこがれを抱いていました。

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さらに、人々が東ドイツ政府に対する不信感を強めたこともあり、東ベルリン市民が西ベルリンへ亡命するようになったのです。ベルリンの壁建設は、そうした事態に対処するための政策でした。

「アデナウアー首相~」見出し+テキスト

ブラント首相の「東方外交」

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ベルリンの壁建設で、東西ドイツは対立を深めた...わけではありませんでした。アデナウアー退陣後、1969年に西ドイツ首相となった ブラント (ドイツ社会民主党)は 東方外交 を展開。これは東ドイツやソ連など 社会主義諸国との和解を目指す外交 でした。

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東方外交の大きな成果といえるのが ポーランドとの国交正常化 です。第二次世界大戦はそもそも ナチス=ドイツのポーランド侵攻 をきっかけに始まりましたよね?また、ポーランドには アウシュヴィッツ強制収容所 が建設され、多くのユダヤ人が殺害されました。いまだ戦争の爪痕が残るポーランドと和解を果たしたことは、まさに偉業だったのです。

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さらにブラントは、1972年に東西ドイツ基本条約を締結。この条約で東西ドイツは双方の主権を承認することになりました。そして翌年、東西ドイツは 国連同時加盟 を実現したのです。

「ブラント首相~」見出し+テキスト

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アデナウアー首相とブラント首相。それぞれが実施した政策をしっかり覚えておきましょう。

この授業の先生

新里 将平 先生

「世界史を楽しく,わかりやすく教えたい!」をモットーにストーリー性のある授業展開で、歴史上の人物や国が当時何を考え、どう動いたかを感情を込めて伝える。

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