5分でわかる!教皇なんてもう怖くない!
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この動画の要点まとめ
ポイント
荘園制の崩壊は、国王の権力上昇につながった
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ポイント1では 荘園制が崩壊していく様子 を学習しました。荘園制が崩壊すると、これまで農民を支配していた領主たちは次第に没落していきました。没落した領主たちは、その後どうなったのでしょうか?こちらを見てください。
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没落した領主や騎士は 廷臣 (ていしん)として国王に仕えるようになりました。また、当時のヨーロッパで 鉄砲が発明された ことで、剣を使った戦いのプロである 騎士 の力があまり必要とされなくなりました。鉄砲は引き金を引くだけで使えるので、戦いの素人でも戦力になれるのです。
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領主は困窮化し、騎士は鉄砲の登場により出番を失くしつつありました。そんな彼らは国王を頼り、廷臣として宮廷で仕えるようになったのです。こうして 国王の権力が上昇 し、反対に 教皇の権威が低下 し始めました。
フィリップ4世とボニファティウス8世の対立/アナーニ事件
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そんな中、14世紀には 教皇権の衰退を象徴する出来事 が起こりました。こちらを見てください。
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1285年に即位したフランス王 フィリップ4世 は 聖職者への課税 を提案しました。聖職者から税金を集めて 諸侯や騎士の生活を援助しようとした のです。
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これを聞いた当時のローマ教皇 ボニファティウス8世 は猛反発。フィリップ4世の案を撤廃するよう要求しました。
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ボニファティウス8世の圧力に対し、フィリップ4世は身分制議会である 三部会 を開催しました。この議会でフィリップ4世は国内の支持を獲得し、その勢いのまま ある事件 を起こしたのです。こちらを見てください。
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なんとフィリップ4世は、ローマ郊外のアナーニという町で 教皇ボニファティウス8世を捕まえて、そのまま幽閉してしまったのです。 この出来事を アナーニ事件 といいます。この事件を受けて、ボニファティウス8世はあまりの怒りに「憤死」してしまいました。
教皇庁を強制移転!教会大分裂が始まる
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フィリップ4世は、ローマにあった教皇庁を南フランスの アヴィニョン に強制移転させました。教皇が仕事をする場所である教皇庁を 自らの監視下に置いたのです。 これを「 教皇のバビロン捕囚 」と呼びます。かつてユダヤ人が経験した「 バビロン捕囚 」になぞらえた呼び方です。
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教皇庁がアヴィニョンに移動すると おかしなこと が起こりました。なんと ローマ と ピサ で、それぞれ教皇を名乗る人物が登場し 全部で3人の教皇が並び立つ事態になったのです。 これを 教会大分裂(大シスマ) といいます。
先駆的な宗教改革者|ウィクリフとフス
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3人の教皇たちは権力争いを繰り広げました。さらに、教会や修道院の聖職者たちは堕落した生活を送っていました。こんな状況に疑問を感じた ウィクリフ と フス は、教皇や聖職者を厳しく批判しました。
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彼らはキリスト教の原点である 聖書 に立ち返ることを主張しました。聖書は ラテン語 で書かれているのですが、ウィクリフはそれを 英語 に、フスは チェコ語 にそれぞれ翻訳し、多くの人に聖書を読んでもらおうと考えました。
コンスタンツ公会議で、教会大分裂が収束
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1414年~1418年には コンスタンツ公会議 が開催されました。この会議の結果、教皇庁はローマに戻り 教会大分裂は収束しました。
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さらにウィクリフの説は 異端 とされ、フスも 異端 として火あぶりに処されてしまいました。
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以上、教皇権の衰退について勉強しました。荘園制が崩壊したことで国王の力が上がり、相対的に教皇の力は下がりました。さらに 教会大分裂 の混乱状態が続いたことで、教皇の権威はさらに衰退してしまったのです。
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ポイントの2つ目は「教皇権の衰退」です。
中世ヨーロッパにおいて、キリスト教世界のトップである 教皇 は強大な権力を持っていました。しかしその権力はやがて衰退していくことになるのです。いったいなぜでしょうか?