5分でわかる!ドイツのヨーロッパ進撃!
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この動画の要点まとめ
ポイント
ポイントの1つ目は「ドイツのヨーロッパ進撃」です。
第二次世界大戦が始まると、ドイツは次々にヨーロッパ諸国を占領していきました。その様子を学習します。
北欧諸国を占領!ドイツのねらいは?
独ソ不可侵条約を結んだドイツは、1939年9月1日に ポーランド へ侵攻。これをきっかけに 第二次世界大戦 が始まりました。
ちなみにこのとき、ドイツはポーランド南部の アウシュヴィッツ に強制収容所を建設。ユダヤ人をはじめ、ナチス=ドイツに逆らう多くの人々を殺害しました。
ポーランド侵攻後、ドイツはデンマーク、ノルウェー、オランダ、ベルギーと、次々に北欧諸国へ侵攻しました。
ちなみに、当時のドイツの戦い方は 電撃戦 と呼ばれました。まず空軍で首都までの道を爆撃。その後トラックで兵士を首都まで運び、一気に首都を占領するというものです。首都をおさえれば国は機能しなくなり、簡単に占領することができます。
ドイツはもともとフランスへ侵攻する予定でしたが、その前に北欧諸国を攻撃しました。その理由は イギリスを牽制するため。 ノルウェーやデンマークなどに軍隊を置いておくことで、イギリスにプレッシャーをかけたのです。
これでドイツがフランスを攻撃しても、イギリスは助けを出せません。フランスを助けている間に、ノルウェーやデンマークにいるドイツ軍が攻めてくるかもしれないからです。このように、ドイツは確実に英の支援を封じてから、フランスを攻撃しにいきました。
イギリスの政権交代/イタリアの参戦
ドイツが北欧諸国へ侵攻する中、イギリスでは政権交代が行われました。宥和政策をとるなど、ドイツに対して弱腰だったネヴィル=チェンバレンに代わり チャーチル が首相となったのです。彼は挙国一致内閣を発足させ、国を挙げてドイツへ対抗しました。
一方、ドイツの優勢を見た イタリア は、ドイツが北欧諸国へ侵攻するタイミングで第二次世界大戦に参戦しました。イタリアは防共協定国としてドイツ側で参戦したのです。
フランスの降伏/レジスタンス運動
1940年6月、ドイツ軍に パリ を占領され、フランスは降伏しました。その後、南フランスに ヴィシー政府 が成立し、 ペタン という人物が国家主席となりました。
ヴィシー政府は、ドイツとの休戦協定に基づき、ドイツに対する協力を義務付けられていました。言わばドイツの 傀儡政権 だったのです。
一方、フランスの軍人 ド=ゴール は休戦協定に反対。亡命先のロンドンで 自由フランス政府 を発足させると、フランスの人々に ドイツへの抵抗運動 を呼びかけました。こうした動きを レジスタンス と呼びます。
アメリカがイギリスを支援!
北欧諸国へ侵攻したドイツは、フランスも占領してしました。いよいよピンチなのが イギリス です。
しかし、そんなイギリスに強力な味方が現れました。 アメリカ です。
1941年3月、アメリカは枢軸国(ドイツやイタリア)と戦うイギリスなどに対し、武器や軍需物資を貸与する 武器貸与法 を成立させました。当時の大統領フランクリン=ローズヴェルトは、ファシズム国家ドイツがヨーロッパを制圧することを警戒したのです。
アメリカの助太刀もあり、イギリスはなんとかドイツの進撃を食い止めることができました。
第二次世界大戦と戦後秩序の形成、第1回。
今回は「ドイツとソ連の猛進撃」について学習します。