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5分でわかる!清朝末期の最期の「あがき」とは?

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この動画の要点まとめ

ポイント

清朝末期の最期の「あがき」とは!?

帝国主義と東アジア3 ポイント2 答え全部

これでわかる!
ポイントの解説授業
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ポイントの2つ目は「清朝末期の改革」です。
義和団事件の後、列強による分割が進んだ中国では、 光緒新政 と呼ばれる近代化改革が行われました。いったいどんな改革だったのでしょうか?

光緒新政の開始

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義和団事件の後、中国では 光緒新政 と呼ばれる改革が行われました。当時の皇帝 光緒帝 の名前に由来する改革です。

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光緒新政の狙いは 国内改革 にありました。 新軍 と呼ばれる西洋式軍隊が整備されたり、官僚登用試験である 科挙が廃止 されたりしました。科挙が廃止された代わりに、官僚養成機関として北京大学が創設されました。

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1908年には日本の明治憲法を模範とした 憲法大綱 が発布され、その中で 国会開設が公約されました。

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華僑や留学生らが清に反発!

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このように、光緒新政は 国内改革 を進めるために行われました。しかし、その一方で 中央集権化 を進める改革であったという見方もできるのです。

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1908年に発布された憲法大綱は 明治憲法 を模範にしています。明治憲法といえば、君主である天皇に強力な権限を認める憲法です。そう、憲法大綱は 皇帝の権限を大幅に強化する内容になっていました。

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光緒新政のこうした「中央集権」的な側面に対し、国内では民衆の不満が高まりました。

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一方、国外では 華僑 と呼ばれる海外へ渡航した中国人や、欧米・日本など先進国に派遣されていた 留学生 たちを中心に、清朝を打倒しようとする動きが盛んになりました。

中国同盟会の結成

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中国の革命家 孫文 は、ハワイで 興中会 という革命団体を結成しました。その後、彼はバラバラだった複数の革命団体をまとめあげ、 1905年 に東京で 中国同盟会 を結成しました。

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1905年 といえば、ちょうど日露戦争が終結した年です。日露戦争における日本の奮闘は「アジアの国でも欧米列強に対抗できる!」という希望をアジア諸国にもたらしました。そんな年に中国同盟会が結成されたのです。

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中国同盟会は孫文を総理に選び、機関紙『 民報 』を刊行しました。さらに「民族の独立・民権の伸長・民生の安定」の 三民主義 を理念として掲げ、革命思想を広げたり武装蜂起を行ったりしました。

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民族の独立 は、満州人国家である清の打倒と、欧米諸国からの漢民族の独立を意味します。 民権の伸長 は国民の権利を認めることを、 民生の安定 は貧富の差の解消など国民生活の安定を目指すことを意味します。

「革命はの台頭」見出し+イラスト+テキスト全部

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以上、光緒新政と革命派の台頭でした。清が皇帝の権力を強める改革を行おうとしたことに反発し、孫文ら革命派が清朝を打倒し、新たな国を作ろうとする動きを見せたのです。しっかり覚えておきましょう。

この授業の先生

新里 将平 先生

「世界史を楽しく,わかりやすく教えたい!」をモットーにストーリー性のある授業展開で、歴史上の人物や国が当時何を考え、どう動いたかを感情を込めて伝える。

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