高校世界史B

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5分でわかる!バルカン半島へ方向を転換!

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この動画の要点まとめ

ポイント

バルカン半島へ方向を転換!

高校世界史 19世紀欧米諸国(2)2 ポイント2 答え全部

これでわかる!
ポイントの解説授業
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ポイントの2つ目は、「バルカン半島への進出」です。
ポイント1、および前回の授業で学習したように、ロシアは 黒海・地中海方面への南下に失敗しました。 すると、ロシアは方針を転換して バルカン半島方面への進出 をたくらむようになりました。ポイント2では、ロシアのバルカン半島進出について勉強します。

ロシア=トルコ戦争/再びオスマン帝国と争う!

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1877年、バルカン半島への進出をねらうロシアは、再度オスマン帝国に戦争を仕掛けました。これを ロシア=トルコ戦争 といいます。この戦争のきっかけは、オスマン帝国領内で発生した ボスニア・ヘルツェゴヴィナの反乱 でした。

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ボスニア・ヘルツェゴヴィナの反乱は、オスマン帝国軍によって鎮圧されました。しかし、この地域には スラヴ人が多く暮らしていたのです。 ロシアは パン=スラヴ主義 を掲げ、オスマン帝国に宣戦布告しました。

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この戦争に勝利したのは ロシア でした。1878年、講和条約である サン=ステファノ(講和)条約 が締結され、 ルーマニア 、セルビア、モンテネグロの独立と ブルガリアの自治領化 が規定されました。つまり、ブルガリアは ロシアの保護国 となったのです。

「ロシア=トルコ戦争」見出し+地図+テキスト

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こうしてロシアは、バルカン半島を通って地中海方面に抜けるルートを確保…することはできませんでした。なんと、 イギリスやオーストリアといった国々が、サン=ステファノ条約の内容に抗議してきたのです。 ヨーロッパ列強は、ロシアが南下政策を完成させることを警戒していました。

ベルリン会議の開催

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こうして1878年、ドイツの ビスマルク が主催者となって ベルリン会議 が開催されました。ちなみにビスマルクは「誠実な仲買人」を自称し、各国の対立を公平に裁定することを宣言しました。

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ベルリン会議の結果、ロシアはサン=ステファノ条約を破棄し、ヨーロッパ諸国との間に ベルリン条約 を結ぶことになりました。サン=ステファノ条約の内容のうち、ルーマニアなどの独立はそのまま認められましたが、 ブルガリアの領土は縮小され、ロシアによる保護は廃止されることになりました。

「ベルリン会議」見出し+テキスト

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ベルリン条約の内容は他にもありました。 ボスニア・ヘルツェゴヴィナオーストリア が、 キプロス島イギリス が統治することが規定されたのです。こうして、バルカン半島におけるロシアの動きを監視する体制が整えられました。

ポイント1の地図のみ表示/書き込みあり

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こうしてロシアは、黒海・地中海方面に加え、バルカン半島を通る南下政策にも失敗してしまいました。少し先の話になりますが、この後ロシアは アジア方面に進出していくことになります。

この授業の先生

新里 将平 先生

「世界史を楽しく,わかりやすく教えたい!」をモットーにストーリー性のある授業展開で、歴史上の人物や国が当時何を考え、どう動いたかを感情を込めて伝える。

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