5分でわかる!北条時宗の時代(元寇)
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この動画の要点まとめ
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チンギス=ハンがモンゴルを統一し、孫のフビライが元を建国し日本に攻めてきた
8代執権 北条時宗 (ほうじょうときむね)の時に、日本は外国(モンゴル)からの攻撃を受けます。これが 元寇 と呼ばれる戦いです。
まずはこの戦いが起きた背景から学びましょう。
この頃、モンゴルを統一した チンギス=ハン の孫である フビライ が、モンゴルから中国・朝鮮まで支配力を拡大して元という国を建国していました。
そのフビライが、日本にも服属を要求してきます。
時の執権 北条時宗 はこの要求を拒否したため、元は二度にわたって日本に攻撃を仕掛けました。
この時の二度の戦いを、まとめて元寇と言います。
二度の戦い、文永の役・弘安の役
では、戦いの経過について見ていきましょう。
結果として二回とも、暴風雨などが原因で元が撤退することにはなります。
一度目は 1274年 の 文永の役 (ぶんえいのえき)です。
日本は苦戦しますが、暴風雨などによって元軍は撤退を余儀なくされます。
文永の役の苦戦から、幕府は九州の警備を担当する 異国警護番役 (いこくけいごばんやく)を強化します。
また、九州沿岸に、石を積み上げて侵入を防ぐ石塁(せきるい)、または石築地(いしついじ)とも呼ばれるものを設置しました。
二度目の攻撃は 弘安の役 (こうあんのえき)です。
この時も、元軍は暴風雨で撤退することになります。
こうして、幕府は元に苦しめられながらも、日本を守ることに成功しました。
元のてつはう(火薬)と集団戦法に苦戦
幕府軍が元軍に苦戦した理由として、 てつはう という火薬による攻撃と集団戦法があります。
日本の武士同士の戦では、最初に武将が名乗りを上げて、戦い方も刀などを用いた一騎打ちが主流でした。
一方の元軍は集団で相手を囲み、火薬や毒矢などを使って戦ったので、幕府軍は慣れない戦いに戸惑ったと言われます。
この時の戦いの様子が記された、有名な絵があります。
これは、『 蒙古襲来絵巻 』(もうこしゅうらいえまき)という絵の一部です。
左に集団戦法を仕掛けるモンゴル軍、真ん中に破裂するてつはう(火薬)、右に苦戦する幕府の御家人が描かれています。
ちなみに、描かれている御家人は竹崎季長(たけさきすえなが)という人で、絵を描かせた人でもあります。
戦いの恩賞が不十分で、御家人から不満の声が上がる
元との戦いに勝利した幕府軍ですが、 戦った御家人への恩賞が、十分に用意できませんでした 。
この戦いは、「外国の侵略からの防衛」だったため、新たに得た土地がなかったのです。
土地がなければ、恩賞として地頭に任命することもできません。
こうして、 多くの戦費を払いながら報酬がなかった御家人は困窮し 、また不満をためていくことになります。
ここでは、モンゴル軍が日本に攻めてきた 元寇 (げんこう)について、詳しく見ていきましょう。
単語自体を聞いたことがある人は多いと思いますが、まずは漢字を確認してください。「寇」の字を「冠」などと間違えたりしないようにしましょう。